top of page

7.29 利賀演劇人コンクール 利賀山房 20:00開演

石坂雷雨演出「斬られの仙太」レビュー

文:綾門優季

 

三好十郎『斬られの仙太』 (http://www.aozora.gr.jp/cards/001311/files/50186_36140.html)

は長大な戯曲で、利賀演劇人コンクールの上演時間一時間以内という規定と衝突することは目に見えており、他団体がアントン・チェーホフ『イワーノフ』あるいはテネシー・ウィリアムズ『財産没収』という海外の名古典を選ぶ中で、唯一この日本の戯曲史に燦然と輝く難物に挑むことに決めた白昼夢が、一体全体どのような戦略で臨んでくるかは、上演前からすでに注目の的であった。

 

今回の白昼夢の最大の武器は、演出・石坂雷雨の戯曲の編集能力のクレバーさにあった。導入部、年貢米の滞納に苦しみ、百姓の仙太が脇目も振らずに懇願する「1 下妻街道追分土手上」、上演が始まる前から、下駄箱の近くに仙太役の俳優・コウダケンタロヲを土下座させ、靴を脱いでまごまごしている観客に向けて言わせるというのは慧眼であった。これによって、取っつきにくいこの物語にすんなりと入り込ませることに成功したのである。逆に言えば、このような白昼夢特有の「遊び」が、後半に進むに従って次第に消えていき、最終的には『斬られの仙太』を白昼夢の型へ無理矢理あてはめたようにみえたのは少し残念だった。講評でも宮城聰氏が「客席に三好十郎が座っていたら、どのような顔をすると思いますか?」という意味の質問を石坂に投げかけていたが、端的で鋭い問いかけである。もちろん、無視しても構わない、面白ければそれでよい、という考え方も一方ではあるが、現代を生きる劇作家の端くれとして、あまりにも雑な古典戯曲の扱いを今後もするようであれば、すぐに顔を曇らせる準備が、わたしにはある。

 

しかし今後の白昼夢を考える上で、明るい可能性の示唆もあった。『斬られの仙太』の講評で完全に盲点をつかれたのは、「少年王者舘に作風が似すぎているのではないか」という問題が検討された時の、ペーター・ゲスナー氏「情けない男が中央に立って、せっかく持っている刀を使うこともせずに上げ下げするだけで、四人の女に延々と罵倒されているという構造は、現代の日本の男性がどうしても去勢的になってしまうメタファーに思えた」という意味の発言であった。少年王者舘に全くなく、これまでの白昼夢に知らず知らずのうちに備わっていた現代的な要素というのは、まさにここにある。確かに少年王者舘ははっきりと男女の役割が区分されているが、白昼夢ではしばしば男女の役割が交換可能なもののように扱われている。今回の『斬られの仙太』に至っては、本来男性の役をほとんど女性が演じてさえいたのである。とても自然な判断だと飲み込んでいたので、わたしにはその点を疑う視点さえなかったのは恥じ入るばかりだが、わたしに限らず石坂も、この指摘には虚をつかれたという表情を浮かべていた。この男女に対する感覚を、無意識の産物ではなく、意識的な斧に持ち替えることが出来るなら、白昼夢にとって、新しい大きな扉が開くきっかけとなるかもしれない。

 

もうひとつ残念なことがあるとすれば、『斬られの仙太』は、ほとんどの場面設定が野外であることを踏まえれば、劇場の中ではない上演がふさわしいのではないかという懸念を覚えてしまった。けれども、その懸念は晴らされる。 2015年8月21日に幕を開ける白昼夢盆外公演『弔EXPO'15』で『斬られの仙太』も上演予定とのことだが、場所は南千住gekidanU野外劇場である。邪悪な欲望だが、わたしが見に行く日はぜひカンカン照りに俳優たちが汗をダラダラと垂らしていて欲しい。からだからあらゆる液体を飛び散らせ、それでもなお仙太に吠えて欲しいのだ。

 

そこまですれば三好十郎も、苦笑いくらいしてくれるのではないだろうか?

 

綾門優季(あやとゆうき)
1991年生まれ、富山県出身。劇作家・演出家・Cui?主宰。青年団演出部。2011年、専属の俳優を持たない、プロデュース・ユニットとして「Cui?」を旗揚げ。2013年、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』で第1回せんだい短編戯曲賞大賞を受賞。短歌や批評等、演劇外の活動も多岐にわたる。 twitter @ayatoyuuki

 

bottom of page